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B.Q.R. J-114 『7カ国語をモノにした人の勉強法』

  前回の記事の続きなんだけど、一方で、語学学習における「論理中心主義的なアプローチ」っていうのは、言語をいろんな形で分析し、記述しようとする。

  その理由はいくつか挙げられるけど、あえて1つ端的に言えば、その分析=記述によって各言語間の「共通項」を見いだして、それによって「普遍的な形式」を追求するためっていうようなことになるんだろうけど、だから結果としてその分析=記述は、「抽象化」っていう形をできるだけ推し進めていくっていうことになってくる。

  ところでこういう分析=記述が、その「共通項」をくくりだす際にどうしても避けて通れないのが「意味」ってことになる。

  ここで言う場合の「意味」って、上述したような「前言述的な意味」じゃあなくて、そのアプローチの仕方によって言語を分析し記述した「差し当たっての意味」っていうようなことなわけだから、これって最終的にはその「前言述的な意味」にたどり着くことって実際にはなくて、仮にがんばってそれをやろうとしても「言語の言語の言語」って感じに無限後退していくようなことになる。

  で、これが意味してることって何かっていうと、この「論理中心主義的なアプローチ」の場合、例えば「語感」っていうような領域の意味把握もそういうわけで原理的には不可能だっていうようなことだ。つまり、結局の所「語感」っていうのは、「分析的な記述」じゃなくて、それより手前にあるもの、あえて言えば「総合的な感触」なのだから。

  語学学習のアプローチとして、日本では長い間「論理中心主義的アプローチ」が主流を占めてきたわけだけど、このアプローチの仕方が結果として外国語をどんなふうに扱ってきたかっていうと、「訳読」っていう形だった。

  これは、言語間の「共通項」を分析、記述するっていう「論理中心主義的なアプローチ」が、ある意味惰性的にたどる必然的経路って言えなくもないんだけど、この場合そのアプローチでは、「語感」っていうようなところにたどり着くことはそもそもできないどころか、たどり着けないままビヨーンと飛んで、「訳語」によってその把握を試みようとしちゃうわけだけど、ここに至ってその「語感」って実は、むしろその把握から逆に遠ざかってしまうんだろうと思う。

  芸術作品の良さをいくら言葉を重ねて語られたところで実際にそれを鑑賞してみなければその作品の良さは分かりようがないのと同じように、「言葉の感触」=「語感」も、どんなに言葉を重ねたところでその「感触」を味わうことはできない。「語感」っていうのは、単に「翻訳不可能」っていうようなレベルじゃあなくて、もっといろんなレベルで、いろんな形でまとわりついてるわけだけど、それを学習を通して身につけるには、現にその「感触」を味わってみる(特に「音」によって味わってみる)以外に習得のしようがないし、実質的にはその方が経路としては短いし手っ取り早い。だから、とりわけ語学学習の環境がここ数年急速に整いつつある今、そのアプローチの仕方として、「認知言語学的アプローチ」をその主軸に据える方が実際的なんだろうし、より本質的な語学力習得のためには妥当な選択なんだろうと思う。

 

7カ国語をモノにした人の勉強法 (祥伝社新書331)

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