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B.Q.R. J-94 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる 』

最近のグローバル化・英語化推進の背後に見てとれるのは「グローバル化こそ歴史の必然であり、進歩である」とする見方、つまり「グローバル化史観」であった。「グローバル化史観」では、人間社会の進歩とは「土着から普遍へ」という一方通行的過程だと捉えられる。

 しかし、この歴史のとらえ方は誤りだ。たとえば、宗教改革以降の西欧の近代化の歴史は「土着から普遍へ」ではなく、「普遍から複数の土着へ」というプロセスと見るべきだ。ラテン語で読み書きする人々だけが独占していた「普遍」的な知を、「現地語」に「翻訳」し、それぞれの地域に根づかせることで、多くの人々の社会参加が可能となり、近代化への活力が生じたのだ。 (『英語化は愚民化』施光恒 著ーp.160)

 

  そういえば、ラノベ系のアニメキャラクターを派手に車体にラッピングした "痛~い" 車、いわゆる「痛車」が今ドイツで人気らしい。

nlab.itmedia.co.jp

  痛車は既にアジアやアメリカでその愛好家グループが広がりを見せているらしいから、これがヨーロッパ全土を席巻(!)なんてことになれば、痛車ってたぶんこのグローバル化時代における「土着から普遍(?)へ」っていう過程のひとつの例ってことになるかもしれない。

  ところで、この『英語化は愚民化』なんだけど、どうもこれは、一部を除いてかなり「痛~い」類の書籍なんじゃないかっていうふうに思った。

  例えばこの著者がしばしば述べている「土着」と「普遍」っていう言葉なんだけど、その使われ方を単純化してみるとこんな感じになっている。

 

  ヨーロッパの近代化は「普遍①」から「土着」へという流れだった。これこそが進歩だ。現在のグローバル化は「土着」から「普遍②」へという流れだ。これは退化だ。 

 

  サラっと読んでると、著者の語り口に乗せられて「まあ言われてみれば確かにそうかもしれない...... 」なんて感じに一瞬納得させられちゃいそうになるんだけど、よくよく考えてみると、ここでの「普遍①」って「ラテン語」のことを指していて、筆者はこの「ラテン語」を「普遍語」と呼んで、それを今現在の「英語」=「普遍②」と同じ位置に置いちゃってるのだ。

  著者は、現在のグローバル化とそれに付随する英語化推進を批判的に見てるわけだけど、その批判を「普遍から土着へっていう西欧近代化の流れに逆行してる」っていう観点から展開する。つまり「逆行してるから、それらは進歩とは言えない」と。

  でも、著者自身も書いてるように、そもそも「ラテン語」って、ごく一部の人々が独占する学的な「知」だったはずだ。そんなごく限られた範囲でのみ流通していた「知」=「ラテン語」を、現在のユニバーサルな言語=英語と同じ意味合いで「普遍語」って呼んで、「普遍から土着の流れに逆行してる」って言っちゃってる。仮に神学論的な意味合いで「普遍語」って言ってるとしても、これはさすがにない。

  思うに、宗教改革以降の西欧近代化って、「普遍から土着へ」っていう流れじゃなくて、素直に「学的真理の普遍化」っていうプロセスとして捉えればいいんじゃないだろうか。

  つまり、ラテン語の翻訳による土着語化って、それ自体としては西欧近代化の「一契機」に過ぎなくて、その全体的な「プロセス」としては現在の各種グローバル化に類似した流れ、すなわち「土着らから普遍へ」っていう流れの中にあったって言っていいんだと思う。

  結局の所現在のグローバル化って、そういう「契機」の多様化、多発化、縮小化、短縮化等々、これまでにない全く新しい形態の「ボーダレスな移動」によって特徴づけられるわけだけど、でも実は(著者の言葉をそのまま使えば)「土着から普遍へ」っていう大きな流れそのものは(善かれ悪しかれ)今も昔もそんなに変わってないのだ。

 

  ところで、アニメキャラクターをド派手に貼り付けた「痛車」。この「痛車」のグローバル化は、じゃあはたして「進歩」って言えるだろうか?

  これは難しい問題だ。

  蒼天への飛翔かたどるゴシック様式のケルン大聖堂前を、バーチャル・アイドルの極彩色でラッピングされた「痛車」愛好家グループが、都内で見かけるマリオカートよろしく列をなして通過する。おそらくその光景は、「普遍」をめぐるあのスコラ的神学論争をまたぞろ甦らせてしまうに値する超アポリア的景色と見えるかもしれない。

 

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)

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