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B.Q.R. J-92 『「英語公用語」は何が問題か』

大事なのは、英語ができるかどうかの前に、話す内容があるかどうかである。(『「英語公用語」は何が問題か』鳥飼玖美子 著 ーp.173)

 

  過去記事でも触れたように、この著者は、伝統的訳読式英語を推す保守的な教育論者の一人で、ここで言ってる "話す内容" っていうのも、英語ベースじゃなくて母語を基盤とした「言語力」のことを言っていて、基本的にはそこからの翻訳っていうのを言語を運用する前提と考えている。

  つまり、この著者がここで「大事だ」って言ってるのは何かっていうと、要するに「充実した母語ベースの内容の翻訳による中身のある英語のアウトプット」っていうようなことだ。

  過去記事でも触れた他の保守的な教育論者たちも、その前提はほぼ一緒だと思うし、その目指すところも、母語による基盤を充実させることで質の高い英語のアウトプットを狙ってるっていう点では共通してると思う。

  過去記事でも触れたある種の憂国論的動機を鑑みれば、そういうふうに外国語の運用にあたって母語ベースの「言語力」を重視する姿勢はわからなくはない。結局の所、例えば学術研究レベルでの思考の基軸となるのは母語であって、それを母語以外の言語や劣化した母語で行うことは研究レベルの低下を招きかねないって感じの懸念があるのだ。

  つまり、保守的な教育論者が訳読式英語学習を推す具体的な理由の1つには、こういった憂国論的動機を背景にしたいわゆる単一言語信仰があると言っていい。

  僕の個人的な意見を言えば、これも何度か過去記事で書いたんだけど、このいわゆる伝統的訳読式英語教育って、後回しでいいのだ。

  確かに、単一言語の強度の低下とそれが招く諸々の懸念ってわからなくはないんだけど(この辺りのことについてはまた別の記事で触れるとして...... )くだんの伝統的訳読式英語学習が、その習得っていう意味では結局ほとんど成果を上げられなかったっていうのは、もう大半の日本人がよく知っている明白な事実だ。つまりこの方法では、その母語ベースの「言語力」を「聞くこと」「話すこと」につなげることができなかったし、従って実質的には「読むこと」「書くこと」にもつなげることができなかったのだ。

  大事なのは、話す内容があるかどうかじゃあない。話す内容自体は、そのベースが何であれ、やり方さえ間違えなければ自ずと獲得できるものだ。問題なのは、話す内容があったところでそれを伝えられないこと、ここにある。

  月並みであるのを重々承知しつつ言えば、語学学習においてまず必要なのは、とにかくたくさん聞いてしゃべること。それによって母語ベースとはまた別に、外国語ベースの「言語力」を「音」として獲得すること。そしてそののちにそれを「文字の再音声化」っていう形でリーディング及びライティングにつなげること。これなのだ。

  母語を基盤とした高度な内容の翻訳発信っていうのは、そういった技能を身につけてからでも十分可能だし、またそういう時代になりつつある。もっと言えば、せいぜい受験英語的リーディングしか身につかないような学習法を何も初めっからやることはないし、そこに何千時間も時間を割くのはもったいない。従来の訳読式英語教育は、いわゆる英語4技能をしっかり身につけたのちに、それらを補強するっていう意味合いで導入すればそれで十分だと僕は思う。

 

「英語公用語」は何が問題か (角川oneテーマ21)

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