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マインクラフトで英語!

How do we get to speak English? The simple answer is here.

A.Q.R. J-6 『ジヴェルニーモネの池金色の雲』

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 平松礼二『ジヴェルニーモネの池金色の雲』12号一部

  1979年第1回中日大賞展大賞、1980年第2回セントラル日本画大賞展優秀賞、1988年第1回MOA美術館賞優秀賞、1989年第10回山種美術館賞展大賞、2000年MOA美術館岡田茂吉賞大賞、2002年第35回東海テレビ文化賞、2004年第57回中日文化賞(平松礼二 - Wikipediaより)

   

  以前、英語を教えてた時に「絵をlookするのとseeするのとでは全然違うのだ」って感じの内容の長文読解問題があって、たしか大抵の人=凡人はみんな絵をlookしてるんだけど、まれに才能ある人は絵をseeするのだ、みたいな内容で、その筆者曰く、lookしてる人は美術館なんかでも平均して1枚の絵の前でだいたい6秒ほど費やしてるみたいだけど、どうせ絵を観る才能なんてないんだから、6秒も絵の前で費やすなんて時間の無駄ですよ、みたいな内容だった。で、当時僕はその問題の解説をしたあと生徒に向かって「だからね、僕らは才能ないんだから、ね、美術館なんかで腕組んで、したり顔にわかったふりしてな~るほど、なんて言いながら観てちゃダメなんだよ」とかなんとか言って生徒をいじめてた。

  そんなlookする才能しかない我々でも(っていうかむしろそんな我々だからこそ?)、つい足を止めて見とれてしまうような絵っていうのがまれに世の中に存在して、この平松礼二の絵もそんな絵のうちの一つなんじゃないだろうか。

  何がいいのかってそれを説明するのは難しいんだけど、凡夫人の才能でもってあえてそれを一言でいえば、「挙措」みたいなものかもしれない。構図っていうんでもない。色使いっていうんでもない。線の引き方やらモチーフやら画材やらいろいろその特徴を取り上げることはできるんだけど、なんていうか、そのしなやかな動きの、ごくわずかな差異から生まれるその人特有の空気みたいなものっていうかなんていうか、まあ要するに「挙措」だ。そしてその挙措が、優雅にエロい。

  まあたぶん平松礼二って、かなりのエロじじいなんだろうと踏んでるんだけど、ひとつだけ惜しいと思うところを言えば、なんで「モネへのオマージュ」として描いちゃったんだろう、ってとこだ。こういうのはなんていうか、巧妙に隠してなんぼだろう。

  だからおそらく平松礼二って、ただのエロじじいじゃあない。彼はおそらく、正直なエロじじいなんだろうな。