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マインクラフトで英語!

How do we get to speak English? The simple answer is here.

B.Q.R. J-81 『たかが英語!』

『たかが英語!』三木谷浩 著

 

言語鎖国とは、国家が国民の使用言語を母語に制限し、外国語の使用を禁じて、国民を言語的に閉ざされた状態に置くことだ。もちろん日本で現実に、外国語の使用が禁じられているわけではない。しかし、英語教育の現状を見ると、むしろ英語を使えなくなるような教育をしているとしか思えないのだ。ーp.175 

 

   この『たかが英語!』の引用記事はこれで5つめになって、なんだか若干話がとっ散らかってしまった感があるんだけど、ちょっとB.Q.R. J-78 『たかが英語!』 - マインクラフトで英語!の記事に強引に戻っちゃうと、この時『たかが英語!』から引用したのが、"日本の英語教育の根本的な誤りとは何か。その一つは英語教師が英語をしゃべれないことだ" っていう一節だった。で、僕も同じく「英語教師は英語をしゃべれないといけない」っていうようなことを書いて、その理由を「たいして難しくないから」って言ったわけなんだけど、もし「英語をしゃべれないけど英語教師やってます」って人がこれを読んでたら、ある意味本当に簡単だからやってみるといいと思う。ゲーム実況の動画を大量に観て、自分で実況してみるだけだから。僕のようなごくありふれた普通の塾講師にできたんだから、全国の英語教師は全員まちがいなくしゃべれるようになる(ちなみに、英語教師じゃないって人は、たぶんもっと簡単にしゃべれるようになると思う)。

  やり方に多少コツがいるから、その辺りのことはいずれどこかでまとめて触れてみようと思うんだけど、まあこのブログの過去記事を読んでいただければ、たぶんおのずとその辺のコツみたいなものはわかるんじゃないかと思うし、あと、なんだかんだやってるうちに、自分なりにそういうコツみたいなものに気づくようになるから、まずはとにかく思い切ってやってみるといい。

  ただ、これはちょうど僕が英語をしゃべり始めた頃の話なんだけど、たまに立ち寄るある居酒屋で、英語をなかなかしゃべれるようにならないっていう年配の人に話しかけられたことがあって、その時に「どんなやり方で勉強してるか」っていうようなことを尋ねてみたら(まあ案の定)リスニングしかしてないっていう状況で、その時僕はその人に向かって「それではしゃべれるようになりませんよ」っていうようなことを話して、いろいろ進言したことがあったんだけど、たぶんこの手の思い込み、っていうか間違い、っていうか誤解みたいなのを持つ人は非常に多いと思う。つまり、「大量に英語を聞いてると、ある日突然英語が口から出てくる!」的な誤解をしてる人が。だから、そのコツみたいなものをあえて一つだけ言っておくと、「ゲーム実況の動画を大量に観て、自分で実況してみる」の後者の方、つまり「実況」のほうが重要だと思っておいたほうがいい(どっちも重要なんだけど)。たぶん、「試しにやってみるか」って言ってやり始めると、英語が口から出てくるまで、延々と動画を見続けちゃうなんて間違いをする人が必ず出てくると思うからね。

  ただ、英語をしゃべれない英語教師が英語をしゃべれるようになるのは、ある意味簡単ではあるんだけど、別の意味ではちょっと難しいかもしれないと思ってる。っていうのも、英語をしゃべれるようになるには、受験英語的な英語、具体的には、主に「英語を日本語に訳してしまう習慣」、「知識としての日本語訳」、それから「文法的知識」なんかをできる限り捨てないとダメだからだ。で、これが意味してることはなんなのかっていうと、要するに、いったん教職を辞めなければならない可能性が高い、ってことなんだよね。まあ仕事ってそう簡単には辞められないし、だからある意味難しいと言えば難しい(っていうか超難しい)かもしれない。

  たぶん、学習指導要領の改訂でいくら英語の授業が昔と比べて変わってきたとはいえ、和訳を使わない授業、いわゆる「ダイレクトメソッド」みたいな授業を展開してる学校なんてかなり稀なんじゃないかって思うから、ほとんどの学校では、おそらく英語の授業の主体って(結局の所突き詰めれば)「どうやって英語を日本語に訳して解釈するか」って所に集約されちゃう、っていうかもっと言えば、「未だにそういう所に集約されちゃうような授業を結局の所行わざるを得なくなっている」っていうのが実情なんじゃないだろうか。だからそうなると、ほとんどの英語教師にとっては、その職をいったん辞さない限り「訳す」っていう習慣から離れることはほぼ不可能で、でもそうすると(仮に超高速英語変換スキルみたいなものを身に付けたとしても)結局、英語をしゃべれるようにはならないのだ。

  ちょっと話がズレるんだけど、それを聞いて「こりゃ無理だな」って思う英語教師がはたしてどれくらいいるかなってちょっと想像してみると、変な話、ほとんどいないんじゃないかって思うんだよね(って言って我田引水的に巻き込むわけにはいかないかな)。まあ少なくとも、かつて受験英語を教えていた僕自身だったら、上のような話を聞いてどう感じてただろうかって想像してみると、たぶん「こりゃ無理だな」ってことすら思わなかったんじゃないかって思う。おそらく、意識的にせよ無意識的にせよ、こういう類の話には耳を傾けることすらしない。自分には関係ない、一種の「戯れ言」程度にしか思わない...... 。

  たぶん大抵の英語教師も(って言ってやっぱり巻き込んじゃうと)、そのかつての僕とほぼ同じようなメンタルを持っているに違いないと思う。つまり、「ああ、あれか。例の英会話か」っていうお決まりのセリフでまずひとくくりにして、で、安心して「こっちはちゃんとした英語指導をしてるんだから」って言って、いそいそと授業作りに邁進する。そんな姿が目に浮かぶ...... 。

  そのメンタルの内実をあえて一言でいえば、「訳読式でかまわない」ってことになるだろう。実際の所、そういうモチベーションで英語指導にあたってる教師が大部分なんじゃないだろうか。

  僕は「英語教師は英語をしゃべれないといけない」理由として、「たいして難しくないから」って言ったわけなんだけど、それに加えてもう一つ理由がある(っていうか細かく言えばもっとある)。それは、「訳読式」ではない方法で英語をしゃべれるようになる(あるいは少なくともしゃべり始める)っていう経験を実感すると、それまでどっぷりとつかってた、旧態依然とした英語指導が明確に相対化されて、そして「ある認識」のもと、批判的にその英語教育を眺めることができるようになって、その上でその英語教育を、大きく改善する動機とその可能性をみいだすことができるようになると思うのだ。

  その「ある認識」って何か。

  それは、上記で引用した三木谷社長のような認識だ。つまり、"英語教育の現状を見ると、むしろ英語を使えなくなるような教育をしているとしか思えない"、っていうこの実感だ。英語をしゃべれるようになると、必然的にそういう見方で現行の英語教育を眺めることになる。

  ちょっと話を戻すんだけど、僕自身の体験からして、そういう見方で現行の英語教育を眺めてみることは、もうそれだけで(単に実際的であるのみならず)より本質的な英語教育を子供たちに還元できる可能性を開くことになると思う。だから、たしかに、既に英語教師として仕事をしてる人が英語をしゃべれるようになるのは、上で見たように、その置かれてる環境のいろんな要請からして、実は現実的にはかなり難しいのかもしれないんだけど、はたしてそのままでいいんだろうかって思うんだよね。おそらくそれだと、その「英語を使えなくなるような教育」っていうのを(実質的には)ずうっと拡大再生産し続けることになると思うから。

  今まさに英語教師を目指している人なら「英語をしゃべれない」なんてことはないから大丈夫かっていうと、たぶん彼らもしくは彼女らもまた、既存の英語教育を引き継いで、それとさして変わらないものを提供し続けることになるんだと思う。なんでかっていうと(これはまたどっかで書くかもしれないんだけど)、そもそも英語教員の養成システムそれ自体が、構造上そうなるように出来上がっちゃってるから(これは推測だけど、結局のところ公教育に携わる新人教師って、基本的には先輩教師の物差しでその指導内容・方法を評価されて、それを踏襲するよう促されてるんじゃないだろうか)。

  で、はたしてそれでいいんだろうか?

  僕自身の意見は、そんな不毛な教育は改められてしかるべきだと思ってるし、だから英語教師は全員英語をしゃべれるようにならないとダメだと思っている(書いてて思うんだけど、「英語教師は英語をしゃべれないとダメだ」って、「なんのレトリックだよ」って思うくらい、あるいはなんかの悪い冗談かって思うくらいヘンテコな文言だな。もっとも、かつて僕は、このあからさまな矛盾を、矛盾とすら思ってなかったんだけど)。

  こうやって英語のハウツー本の類の書籍をいろいろ読み始めた頃には、こんなことまったく予期してなかったんだけど、実は世の中には「はたしてそれでいいんだろうか?」っていう問いに対して、「それでいいのだ」って答える人たちが、意外な場所に多く吹き溜まってるってことにだんだんと気付くようになって、このところちょっと驚いてるんだよね。で、その意外な場所ってどこかっていうと、 それは、研究機関としての「大学」なのだ。でもまあこれはまた別の話になるかな。今回の記事はここまでにしよう。

 

たかが英語!

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