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A.Q.R. J-5 『岳』

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植田一穂「岳」F10一部 

 

  植田一穂(1961 ~)広島県生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻入学。同大学大学院美術研究科日本画終了。創画展創画会賞受賞。春季創画展春季展賞受賞。第17回MOA岡田茂吉賞絵画部門MOA美術館賞受賞。

 

  "富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である" ってこれは、『富嶽百景』(太宰治)の冒頭だ。

  東西縦断は頂角云々っていうのは、たぶん南北を結ぶ線でスパッと富士を切った時に、それを東西を結ぶ線から見ると124度ってことなんだと思う(結局「縦断」っていうのは南北方向にってことだから。なんかややこしいな)。だから逆に、南北は云々っていうのは、東西でスパッと切って、今度はそれを南北から見たら117度っていうことだろう。山は、頂角、稜線、頂きの傾斜から何から何まで、見る場所、方角、角度によってその様相がだいぶ違う。

北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。

 

この冒頭に続く次の段には、またこんな富士も太宰は描写している。

十国峠から見た富士だけは、高かった。あれは、よかった。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがった。私が、あらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すっと見えた。おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐったく、げらげら笑った。やってゐやがる、と思った。

  太宰の『富嶽百景』の冒頭には、こんなふうに大きく二つの富士の姿が描かれていて、一つは、のろくさと拡がって、決して秀抜のすらと高い山ではない、何か凡庸って言ってもいいくらい普通の山としてみえる富士と、もう一つは、例えば熱海の方、富士山から見て南東の方角に位置する十国峠=日金山の山頂から見た、青い頂がすっと見える、ちょっとそのあまりの存在感に圧倒されて、どうにも照れくさくなってしまって「へへっ、やっていやがる」なんていうふうに嘯かずにはいられないような富士。そして、貼り付けたこの植田一穂の描く日本画「岳」には、そんな二つの富士が、一つの絵の中に同時に収められているように僕には見えた。

  はじめ観た時この「岳」は、なんか「にゅっ」と突き出たその山の、柔らかく湾曲した稜線がどうにも気持ち悪くて、「これが富士?」(いや、富士だと思う。画題「岳」だけど...... )っていうなんか何とも言えない「こっけい」とまで言っちゃうとなんなんだけど、「いやあ、ヘンテコな絵だなあ」っていう印象だった。

  ところが、この「岳」、とにかくその頂角がすごくて、パンフレットに分度器をあてて測ってみたらぴったり30度だったんだけど(これ制作の時絶対測ってると思う)、その「富士の鋭角」っていうイメージが、引用した太宰の掌編を想起させてなるほど日本画の伝統を、ひとまずこんなふうに「富士の頂角」っていう形でもまた踏襲してるのか(ってつまりその画材だとか作画プロセス以外でも)受け継いでるというわけか、なんて思いながらもう一度この「岳」を見てみると、ちがった。今度は悪くなかった。なんか、はじめ稜線と思われていたそのぐにゃっと湾曲した線を、今度はいったん外して観てみると、その内側にあの例の頂きが、やや左に傾斜する感じでゴツゴツと見えた。驚いた。っていうよりも、へんにくすぐったくなった、かどうかは別としてとりあえず「な~るほど。やっていやがる」と思った。

  そんな「やっていやがる」富士を、ときおり関東平野に静かに降り積もる雪のような、柔らかな稜線がぬめっと(ってとこがちょっと気持ち悪いんだけどまあなんか「ぬめ」っと)覆っている。左下に見えるこの赤く丸い丘陵は、お椀型をしている例の通称お椀山として知られる大室山なんだろうか? まあ木が生い茂ってるし、何かの山なんだろうけど、まるで太陽のようなエネルギーの塊みたいなものが下から膨張しつつある感じで、そこからこの雪化粧をした峻厳とそびえる富士、そしてその富士を柔らかく包み込む雪の稜線、で、その右上に月が、浅葱色の空を背に蕭然として浮かんでいる。何か、富士を中心としてその周りを天動説よろしく回る月と太陽が、静と動のバランスを保ちながら画全体に有機的な動きと拡がりを与えて、まるでこの富士が一つの生き物のようにも見えてくる(ちょっと気持ち悪いくらいに)。

  何かもう少し「のろくさと拡がる」感じがあってもいい気がしたけど、まあ悪くない画だった。