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マインクラフトで英語!

How do we get to speak English? The simple answer is here.

B.Q.R. J-73 『聞ける英語 話せる英語』

『聞ける英語 話せる英語』東後勝明 著

 

私も高校生の頃、このことが分からず、辞書の言葉をかたっぱしから訳語と一緒に覚えたものです。しかし、ただ訳語を暗記するだけでは思ったほど役に立たないことがすぐに分かりました。

 

  B.Q.R. J-72の続きなんだけど、"vocabuil"についての記事を書き始めたのが8月の半ばで、それ以降(かなり不真面目に...)まあなんとか "vocabuil" をやりつつ、またこういう記事を書きつつ語彙力増強について、っていうよりも、なんていうか文字とか音とかの表象とその意味内容との関係についていろいろ考えながら "vocabuil" をやるうちに(ってそんなことを考てるから「かなり不真面目に」なんてことになるのは重々承知しつつ、でもやっぱりこの辺をある程度納得いく形で結論を得てからじゃないとどうも前に進もうという気が起こらない)ともあれ、"vocabuil" としての語彙力増強をやるうちに、受験英語的な日本語訳暗記っていう英単語学習はもとより、そもそも言葉を表象とその意味内容っていうふうに分化して捉えて、なんかそのことを暗黙の前提みたいにしちゃってるってこと自体にどうも疑問を持たざるを得なくなりつつある。

  以前の記事にも書いたと思うんだけど(いや、書いてないかもしれない)、自分自身の(母語としての日本語の)感覚だと「もう音が既に意味」なんだよね。たしかに、言語を何か研究対象としてそれを分析して、その働きなり仕組みなりを誰かに説明するとかって言うんであれば、そんなふうに言語を「表象と意味内容」みたいに分割して、ある種二項対立的に構造化して捉えることは説明しやすいし分かりやすいからいいのかもしれないんだけど、といってじゃあ言語を習得する時にそういう構造化を前提にして進めちゃっていいのかっていうと、これは個人的には、とりわけ統語論的な文法なんかと同じように、語学学習のプロセスとしては因果関係が逆なんじゃないかと感じている。

  「意味」っていうのはそれが何なのかっていうのを捉えようとすると、それこそ「意味は意味だ」としか言いようがない、なんか実態のないつかみどころのないものなんだけど、その習得プロセスをあえて表現するとすれば、それは「植物の生長」みたいなもので、なんていうか、いきなり日本語訳みたいなはっきりとした意味がその語句にピタッとくっつくんじゃなくて、たとえばタネ(=表象としての音)が徐々に地中に根をはって茎を伸ばして葉をつけて、やがて花を咲かせるみたいに、徐々にその実態を明確化して豊かにしていく、そういうものなんじゃないかと思ってるんだけど、語学学習のある種暗黙の前提みたいになっちゃってる「表象とその意味内容の分割」っていうのは、本来あるべきそういう自然な形での意味の習得を、初発の段階でへし折ってしまってるんじゃないだろうか、っていう気がこのところしている。

  このブログでももう何度か書いたんだけど、例えば僕個人のリスニングのコツって「意味をなるべく考えないようにすること」っていう自分で書いてても「なんだよそれ」って突っ込みたくなるような、でも実感としてはそれが一番聞き取りやすくなる姿勢っていうか態度っていうか、もっとも聞き取りやすい方法なんだけど、実はこの時の「意味をなるべく考えない」っていうのは「聞いた英語を日本語に置き換えない」っていう程度のことだと最初思ってたのが、今ではなんとなくそれにとどまらないような気がしてきてしまった。つまり、「意味を考えない」=「日本語に置き換えない」じゃなくて、もう文字通り「意味を考えない、意識しない」ってことなんじゃないか、そういう姿勢が必要なんじゃないかと。

  だから、以前の記事でも書いた「文字に意味を乗せるのじゃなくて、音に意味を乗せるべき」っていうのも、既に「表象と意味内容の分割」っていうのが、いずれにせよ暗黙のうちに前提とされちゃってるから(表象として「音」を選択するっていうのはまあそれでいいとしても)、実は「文字」に意味を乗せようが「音」に意味を乗せようが、ほとんどこれらは同じ範疇にあると言ってしまっていいのかもしれない。

  B.Q.R. J-71で書いた「以前行っていて今行っていない単語学習」のリストに「英単語を見て日本語訳を答えるテストをする」っていうのを挙げたんだけど、今現在行ってる "vocabuil" では「日本語訳を答えるテスト」に限らず、例えば例の「ジーニアスのアプリに登録した音を聞いてその意味内容を思い浮かべる」っていうある種のブラッシュアップみたいなことをする際にも、できる限り「テスト」にならないようにしていて、例えば意味が思い浮かばなかったりしたものはそれを確認するっていうようなことはしないで、もうそのまま放っておいて、音だけ聞いて通過するっていう感じのことをやってるんだけど、ちょっとここの所こういう「音を聞いて意味内容を思い浮かべる」っていうことそれ自体も、そもそも学習プロセスとしての前提がおかしいのかもしれない、つまり「表象とその意味内容の分割を前提にしちゃってるけど、はたしてそでいいんだろうか」っていう気がして、どうもこのあたりはまだいろいろ考えることが出てきてちょっとこの "vocabuil" が一向に進まない原因になってしまっている。

  もっとも、こういう「暗黙の前提」のことを強く意識するようになったのは、そもそも "vocabuil" を始めるようになってからであって、例えばYouTubeで動画をただ観てたり、マインクラフトの実況をやってたりする時なんかはそこまで意識することもなかった。それは言うまでもなくこの語学学習全般における「暗黙の前提」になっている「表象とその意味内容の分割」の有無が大きく関係してるんだろうけど、おそらくこのあたりを突き詰めていくと、だいぶ目新しい(と自分には思える)"VOCABUIL"の方法が見えてくるんじゃないだろうかという気がしている。

  さて、ちょっと前置きが長くなっちゃったな。続きはまた次回書くことにしよう(引用した本は過去にも扱ってるので、参考までにその記事を貼りつけておきます)。

 

espinmc.hatenablog.com